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三月二十三日
きのう越後からの便りに、越路はまだ深い雪の中で、春まだ遠くとあつたが、肥後路の季節は早く、菜の花も桜も今や満開、らんまんの春の姿である。しかしこの日は[#「この日は」は底本では「この月は」]珍しく北の風が出て雲低く、さきがけた春の出ばなをくじかれた思いで、天草への船が三角港を出帆したころは、粉雪さえ落ちはじめ、デツキに立つてもいられない程であつた。けれども船数の少い航路のこととて、船室はぎつしり満員なので、レインコートのえりをたて、僅かに風をふせぎながら右舷のふなべりにこしかけていた。北風が強いので、人々は船員の止めだてを聞かず、ともすれば左舷に片寄るので、船は傾き、気が気でない。しぜん旅なれない人たちだけが、その危さにおびえて、右舷に集るばかりであつた。
天草へは、はじめての旅だ。だから天草の地図にもうとく、おおよそ小さな島が二つ並んでいる所であろう位の地理的認識しか、持つていなかつた私である。ところが、
船室の中に二十四五の、下手な化粧の女がいた。船員が右舷に行つてくれ、といくら頼みこんでも一人位いいじやないのといつて、いうことを聞かないその女は、眼鏡をかけ、いわゆる現代的な女のタイプであつたが、どこからか、大浦上陸後のニユースをもつて来て、しきりに甲高にしやべりちらしていた。大浦から本渡までのバスが来ないですつて、橋がこわれているから、歩かなくちやならないわ、こまつたな、本渡まで七里よ、あんたどうする、歩いたら七時間かかるわ、真夜中までかかるわ、困つたな、などと、一人ではしやいでいるが、そのさわざ方があまり大げさなので、乗客も退屈しのぎに聞いている程度で、そう困つたような顔もしていなかつた。乗客の一人が私に耳うちした。あいつ左舷から動かないので、船員にだまされたんですよと。彼女の動かないその場所が、上陸第一のところだそうだ。そこにいて第一ばんに上陸したつて、バスはありませんよ、と、いわれたに違いないと、私のよこの男は判断したもののようであつた。
船は、大浦の岸壁についた。
女のもたらしたニユースなど、誰も本当にしていなかつた。船が岸壁につくやいなや、乗客は目の色を変え、一せいにスタートを切つた選手のようなスピードで、かけ出した。桟橋はために大ゆれにゆれたが、人々は少しも顧慮しないもののようであつた。バスは一台しかなく、三十五六人も乗れば、満員になる…
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